わが町 関ヶ原のご紹介

関ヶ原はご存知の通り『天下分け目』でおなじみの場所ですが、この天下分け目が2度行われた事は知らない方が 多いと思います。はじめの天下分け目は、『壬申の乱』で天皇家の争いです。大海人皇子と大友皇子の戦で、 大海人皇子が兵士にヤマモモを配り快勝しました。そしてその地を『桃配山(ももくばりやま)』と名付けられたといいます。 その900年後、徳川家康がこの快勝の故事にあやかりこの桃配山に陣を敷き1日で天下をものにしました。

徳川家康が最初に陣を構えた「桃配山

関ケ原の合戦時に徳川家康が使用したとされる腰掛石と机石が今も残っています。合戦当日の朝は濃い霧が立ち込め、小雨が降り1m先もみえなかったといいます。この場所に立った家康は勝利を確信していたのでしょうか。

関ヶ原の戦いの戦死者は6千人とも8千人とも言われており、その供養のために2つの首塚が建てられました。そのひとつがこの西首塚です。

今でも関ヶ原町の史跡となって残っています。

この首塚を建てたのは、この地の領主であった竹中重門です。

有名な豊臣秀吉の軍師として知られる竹中半兵衛重治の息子です。

関ヶ原の戦い後、竹中重門は徳川家康より1千石の米を供養料として下賜され、またこの地の領主として不破郡岩手6千石を安堵されました。

そして子孫は徳川将軍家の旗本交代寄合として、岩手城(岩手陣屋)に居を構え、代々この地の領主として、明治時代まで続きます。

 

なので江戸時代を通して関ヶ原の地で供養を行ってきたのが竹中氏ということになりますね。

首塚の上にお堂が建っています。

これは江戸時代になってから十一面千手観世音、及び馬頭観世音を祀る堂が建てられたそうです。

戦死者の供養のためですね。

 

供養、維持管理が、現在でも西首塚周辺に住む人達によって行われています。

古戦場跡

天下分け目の関ヶ原合戦の舞台跡地です。

付近一帯の各武将の陣跡には石碑や幟が立っており、戦国ファンなら充分楽しめます。

 

ウォー・ランド

近くに「ウォー・ランド」という施設があります。

日本市場最大の合戦ともいわれる関ヶ原合戦を忠実に基づいて再現したテーマパークです。

鍾乳洞

近くに大きい「鍾乳洞」もあります。

古戦場と同じくらいの人気観光地です。

               

日本武尊ゆかりの泉

「玉倉部の清水」(岐阜県名水50選のひとつ)

 その昔、ヤマトタケルノミコトが伊吹山で毒霧に遭遇し、病に冒されたが、この清水で回復されたと伝えられます。

私たちは、この歴史ある町を誇りに思い、この地で妻と力を合わせて美味しい「にんにく味噌」を製造販売しています。 

関ヶ原に是非お立寄り下さい。

 

 

 

 

                   

近くから見る「秀峰 伊吹山」